【キングダム】悼襄王(とうじょうおう)は暗殺された?犯人像を徹底考察!
『キングダム』に登場する趙の国の悼襄王は、作中で国や民のことなどまるで関心のない暗君として描かれていました。その報いなのか、悼襄王は無惨な最後となってしまいます。悼襄王の死の原因はなんだったのか、『キングダム』内での彼の真実とともに考察していきましょう。
目次
【キングダム】悼襄王とは?
中国の春秋戦国時代を舞台にした『キングダム』において、趙王こと悼襄王は国を治める身でありながら、自らのことしか考えていない人物として描かれています。その様子は臣下からも愚かな王と見られている君主といったものでした。悼襄王は実在した人物で、春秋戦国時代の趙の第9代君主として知られています。その在位は紀元前244年から紀元前236年のおよそ8年ほどのものでした。
悼襄王のプロフィール
- 紀元前245年:父「李成王」の崩御により、趙王「悼襄王」として即位。将軍を楽乗に交代。
- 紀元前244年:魏に対し大いに備え、平邑〜中牟の道に通じようとするも成功せず。
- 紀元前243年:李牧を将軍に起用、燕を攻めさせ武遂・方城を落とす。
- 紀元前242年:龐煖を将軍に起用、2万の燕軍を討ち趙出身の敵将劇辛を処刑する。
- 紀元前241年:函谷関の闘いで敗退する。
- 紀元前236年:燕を北伐した隙に秦の攻撃を受け、鄴・閼与など九城を失う。 同年、悼襄王は崩御。その後即位した幽繆王の代に趙は滅亡。
キングダムの概要
漫画家原泰久さんによる『キングダム』は、紀元前3世紀の春秋戦国時代末期に、中国統一を目指す少年「信」と秦王「嬴政」を主軸に描かれる古代中国歴史漫画です。週刊ヤングジャンプ2006年9号から連載が開始され、コミックスの4巻あたりから人気に火がつき始めます。ゲーム化・テレビアニメ化・山崎賢人主演での実写映画化とその人気は止まるところを知りません。
キングダムのあらすじ
紀元前770年から始まった春秋戦国時代、およそ500年経っても中国全土が統一されることはありませんでした。中国最西部、秦の戦災孤児「信」は友とともに天下の大将軍を目指します。亡くなった友から大将軍への夢を託された信は秦王・嬴政と出会います。天下の大将軍を目指す戦災孤児の少年・信と権力はなくとも中国統一の夢を抱く少年王・嬴政の出会いによって歴史は大きく動くことになるのでした。
【キングダム】悼襄王は暗殺された?犯人像を考察
悼襄王は『キングダム』502話から登場します。初登場から美少年たちと風呂に浸かっているという、インパクトある人物として描かられていました。644話で死亡してしまいますが、その時も少年たちとの入浴中のことでした。入浴中の死亡ということで、その死因は病気による発作によるものか、あるいは毒殺によるものかという描写になっています。悼襄王は病死なのか、それとも毒による暗殺なのか真相を考察していきます。
悼襄王は暗殺された?理由は毒殺?
『キングダム』644話で死亡する悼襄王は、その直前に少年たちと入浴している様子が描かれていました。浴槽内で酒をあおり風呂場を後にしようとした時に、心臓のあたりに痛みを感じたかと思った悼襄王はそのまま転倒します。苦しみながら吐血と下血をして息絶えました。この様子は病気による発作なのでしょうか?病気による死というより、毒を盛られていたのではないかとみられる描写のようです。
悼襄王を殺した犯人を考察
悼襄王は暗君として家臣たちから蔑視されていただけでなく、優秀な武将である「李牧」を処刑しようとしたため、彼の一派から恨まれていたと思われる節もあります。それ以外にも悼襄王を亡き者にしたい人間は複数いることが推測されるでしょう。ここからは悼襄王を暗殺する動機を持つであろう人物たちにスポットを当て、悼襄王殺害の可能性を考察してみましょう。
悼襄王を殺した犯人候補①李牧
李牧は趙の優秀な武将です。それゆえに趙の王である悼襄王に逆らうことはできません。事実『キングダム』の作中において、悼襄王の命に背くことは一切していませんでした。しかし悼襄王はその李牧を鄴を守りきれなかったとして斬首するつもりです。理不尽な悼襄王の振る舞いに、李牧を慕う者たちが悼襄王の殺害を仄めかす描写がされています。李牧本人は獄中の身なので悼襄王の毒殺などを実行はできませんが、その一派は悼襄王を殺す理由がありました。
悼襄王を殺した犯人候補②太子嘉
太子嘉は悼襄王の嫡男で次の趙王と目されている人物です。李牧も太子嘉には一目置いているだけあり、聡明な君主となるであろうと誰もが期待する太子でした。父である悼襄王へ国のための進言をたびたび行っています。しかし李牧の処刑を反対を訴えた時に、悼襄王はあろうことか太子嘉の耳を噛み千切ってしまいました。この行為は太子本人だけでなく、側で見ていた臣下たちも悼襄王を毒殺する理由として十分かもしれません。
悼襄王を殺した犯人候補③郭開
郭開は悼襄王の腹心ともいうべき存在で、奸計が得意な趙の宰相です。いかにも狡知に長けていそうな人物ではありますが、悼襄王の死んだ時の様子からすると郭開が悼襄王を毒殺したとは思えないあわてぶりでした。悼襄王の死後に王に即位するであろう人物は聡明な太子嘉だとわからない郭開ではないでしょう。彼の立場から考察すると、都合が悪い状況を生み出すとは考られません。悼襄王の毒殺を企てることは可能だとしても殺害する理由はなさそうです。
悼襄王を殺した犯人候補④江姫
悼襄王殺害の容疑者として残る1人が悼襄王の妃「江姫」です。太子嘉の耳を噛み千切った悼襄王は、英書記官を通して江姫に次の趙王は江姫の子「遷」を即位させると伝えています。実際に趙王に即位したのは遷こと幽繆王です。これにより太后となった江姫は権力を掌握できました。悼襄王の死は江姫に都合よく、悼襄王暗殺の理由として十分といえるでしょう。我が子が王に即位し権力を握るという江姫の野望を短期間のうちに具現化した結果をみれば、悼襄王を暗殺したのは誰かを物語っているようなものかもしれません。
悼襄王を殺した犯人は存在しない?
これまで悼襄王を殺した犯人は誰なのかを考察してきましたが、実は犯人が存在しないのではないかという憶測もあります。その根拠となる理由は『キングダム』の作中において、悼襄王暗殺の動機となる描写はいくつもされていますが、毒殺の証拠を示すシーンは描かれてない点があります。もちろん犯人そのものを明示した描写もありません。これは『キングダム』読者に悼襄王の死の真相を考察してもらう意図なのでしょうか。
【キングダム】悼襄王の性格や人物像
ここまで悼襄王の死に対して暗殺(毒殺)されたのではないかという考察をしてきたわけですが、そもそも悼襄王とはどういった人物だったのでしょうか。作中では暗君として描かれていましが、その点では史実からは窺い知れない人物像ではあります。おさらいの意味を込めて『キングダム』での悼襄王を作中より読み解いていきましょう。
悼襄王の人物像①美少年が好き
『キングダム』での悼襄王は美少年たちと入浴するシーンがよく描かれていました。風呂場と少年たちを自らの宝だと表現するほど、こよなく愛していたことがわかります。その言葉を微笑みで受け止める少年たちでしたが、悼襄王が死ぬ直前では苦しむ悼襄王に対して笑みでもって見届けています。この時、少年たちの真意を理解した悼襄王には絶望しかなかったことでしょう。
悼襄王の人物像②趙の国民はどうでも良い
自分のことにのみ執心し、国や民については知ったことかと放言してしまう悼襄王は誰がみても明君とは真逆の暗君にしか感じられません。この主君を戴いた家臣たちの心境を察すると気の毒としか言いようがありません。しかしここまで暗愚に徹する悼襄王には、多少なりとも同情できる事情がありました。
悼襄王の人物像③病気がちで身体が弱い
悼襄王は病弱である、そのように描写されるシーンが『キングダム』内で散見されます。当の本人もそれを自覚しており、自身の残された時間も残り少ないことさえ理解していました。国や民を顧みない自分勝手な振る舞いはこれが理由なのでしょう。しかし傍若無人さが仇となり、自らの命を余計縮めてしまったのではないでしょうか。
【キングダム】悼襄王の史実の経歴
『キングダム』での悼襄王は病弱な暗君として描かれています。そして最終的には毒による暗殺を思わせる最期となってしまいました。史実と照らし合わせると死亡した年こそ同じものの、暗殺されたという記述はありません。ここからは史実による悼襄王の足跡をみていくことにしましょう。
悼襄王の史実①紀元前245年
趙王の李成王は廉頗に命じ、魏の繁陽を占領させますがこの時分に李成王が崩御します。次の趙王として即位したのは悼襄王でした。悼襄王は廉頗を将軍職から罷免し、後任に楽乗を任命します。これに怒った廉頗は楽乗を攻撃、撃破して趙から魏へと亡命してしまい、さらには負けた楽乗も亡命します。後に悼襄王は廉頗を呼び戻そうとしますが郭開によって阻止されました。
悼襄王の史実②紀元前243年
匈奴の守備隊長として名を馳せた李牧を将軍に起用し、燕の武遂・方城を攻め落とさせます。また悼襄王の臣であり寵愛を受けていた春平君は秦に出港した際、拉致されてしまいました。しかしこれをきっかけに秦趙同盟を結ぶことになります。同年の3月、人質交換により秦から太子が帰還します。またこの年には韓皋の城市を築きました。
悼襄王の史実③紀元前242年
初代趙王であった武霊王の代の頃から高名な学者として知られた龐煖を将軍に起用し、龐煖を将軍として甘くみていた燕軍2万を討ちます。この時捉えた敵将の劇辛を殺しました。同年には趙の宰相と魏の宰相の会見によって同盟を結ぶことになります。
悼襄王の史実④紀元前241年
悼襄王はこの時も龐煖を将軍に、趙・楚・魏・燕の各国から精鋭の兵を用いて秦の蕞を攻めますが陥落できませんでした。しかしこの兵を移動させて斉を討ち、饒安を取ります。同年に楚の春申君が楚・趙・魏・韓・燕の5国による合従軍を率いて秦と戦いますが、函谷関で敗退します。これがいわゆる「函谷関の戦い」といわれる戦いです。
悼襄王の史実⑤紀元前236年
龐煖によって燕の北伐を行いますが、趙はその隙を突かれ秦に鄴や閼与など九城を失います。龐煖は南下し趙を救おうとしますが間に合いませんでした。この紀元前236年は悼襄王は死去し、嫡子であった太子嘉ではなくその弟である遷が趙王・幽繆王として即位します。幽繆王は暗君であったため、幽繆王の代において趙は滅亡しました。
【キングダム】悼襄王に対する世間での評判や人気
『キングダム』の典型的な暗君だった悼襄王は『キングダム』ファンからどのように思われていたのでしょう?悼襄王に対するファンの評価をいくつか見ていきましょう。
視点を変えてみれば、悼襄王は決して暗君だと断定することはできないのかもしれません。実際そういった歴史の出来事は多いのでしょう。それにしても『キングダム』を架空の物語としてではなく、史記の選考資料として読むのは興味深いものです。
史実を元にした『キングダム』ですが、史実そのままの展開ではありません。物語の構成上、ある程度の補足や変更は必要なのでしょう。しかし史実であれ架空であれ、エピソードを多面的にみることによって感じ方も変わってきます。またそのような見方も『キングダム』を楽しみ方の1つといえるのでしょう。
史実を踏まえて物語を創っていくにしても、史実とのギャップが生まれることは創造物としての宿命でしょう。しかしそういった点があるからこそ『キングダム』が面白いという理由なのではないのでしょうか。丁寧に調べていけば史実といわれる出来事も虚構のものだったということになるかもしれません。
【キングダム】悼襄王は暗殺された可能性があった
『キングダム』という物語が面白さを持つのは、悼襄王のように際立つキャラクターがいるのも理由の1つでしょう。悼襄王が暗君だったという史実はありませんが『キングダム』ではその暗君ぶりが妖しく輝いて見えます。それだけに周囲から暗殺されうる可能性は高くなっていました。凄絶な死を迎えた描写から病死というより、毒殺されてしまった可能性は高いようです。その犯人は誰だったのか、今後明白になる時は来るのでしょうか。
この記事のライター
zedafenrir
この記事へコメントしてみる
コメントは運営が確認後、承認されると掲載されます。